アワリーマッチングと「フェアネス」という、もう一つの難しい問い

国や地域の間の公平性をどう担保するか? Nao Sakai

· オピニオン

(注:本投稿は投稿者個人の意見であり一般社団法人アワリーマッチング推進協議会の公式見解ではありません)

アワリーマッチングがスコープ2のインベントリ手法として注目を集める一方で、その導入を巡っては技術的な課題だけでなく、「公平性」という、より扱いの難しい問題が浮かび上がってきます。

公平性という言葉は一見すると抽象的ですが、実はアワリーマッチングの議論の中では、非常に現実的で、しかも二重の意味を持つ論点として存在しています。

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データが整っていない地域に生じる「負担の不公平」

まず一つ目の公平性は、非常に分かりやすいものです。


アワリーマッチングは、時間別・地域別の電力データを前提とします。しかし、世界中の全ての国や地域で、同じ水準のデータが整備されているわけではありません。

データが十分に整っていない地域で、同じ精度のインベントリを作ろうとすれば、追加的な計測設備やシステム投資、人材育成などが必要になります。これは決して小さな負担ではありません。
むしろ、「精度を高めること自体がコスト増につながる」という状況は、直感的には不公平に感じられる側面があります。

データがもともと整っている地域では、比較的低コストで高度な算定が可能なのに対し、そうでない地域では、同じ基準を満たすために過剰な負担を強いられる。この構造をどう捉えるのかは、アワリーマッチングを制度として考えるうえで避けて通れない問題です。

「正直者が損をする」可能性という、もう一つの公平性

もう一つの公平性は、より厄介で、見えにくい問題です。
それは、データがある地域や企業が、それを正確に開示することによって、かえって不利な立場に置かれてしまう可能性がある、という点です。

もし、ある国や企業が詳細な時間別データを公開し、その結果として排出の実態がより厳密に可視化されたとします。一方で、別の国や企業は、データがない、あるいは開示しないことで、粗い算定のまま「きれいな数字」を維持できるとしたら、どうでしょうか。

これは、ゲーム理論的に見れば、「データを持っているが、あえて見せない」という選択肢が合理的になってしまう状況です。
つまり、真面目に取り組むほど、数字上は不利に見えるという逆転現象が起きかねません。

日本という文脈で見えてくること

日本は、電力データの整備という点では、国際的に見て比較的条件の良い国の一つだと言えます。そのため、アワリーマッチングを技術的に検討できる立場にあります。

しかしそのことは同時に、「正直にデータを出した結果、相対的に不利に見えてしまうのではないか」という懸念とも隣り合わせです。
この問題は、日本だけの話ではありませんが、比較的制度やデータを丁寧に整えてきた国ほど、強く意識せざるを得ない論点でもあります。

ここで重要なのは、「だからデータを出すべきではない」と結論づけることではありません。むしろ、「データを出すことが損にならないルール設計が必要ではないか」という問いを、静かに投げかけることだと思われます。

フェアネスは技術ではなく、設計の問題

アワリーマッチングそのものは、インベントリの精度を高めるための技術的な手法です。しかし、フェアネスの問題は、技術では解決できません。
それは制度設計や段階的導入、評価の仕方といった「ルールの問題」です。

一律に高い精度を求めるのか、それとも移行期間を設けるのか。
データがある場合とない場合を、どう評価上で扱うのか。
精度の違いを「努力」としてどう位置づけるのか。

こうした問いに対する答え次第で、アワリーマッチングは「前向きな進化」にも、「新たな不公平」を生む仕組みにもなり得ます。

途上国との関係をどう考えるか

さらに視野を広げると、途上国との関係も無視できません。
データが整っていない国に対して、いきなり高度な算定を求めることは現実的ではありません。一方で、将来的により精緻な排出管理が求められる流れは避けられないでしょう。

ここで重要なのは、「できていないことを責める」のではなく、「できるようになる余地をどう支えるか」という視点です。
データ整備を促す取り組みも、義務や正解としてではなく、選択肢の一つとして、時間をかけて進めていく必要があるのではないでしょうか。

おわりに

アワリーマッチングは、スコープ2インベントリをより現実に近づける強力な手法です。しかし、その導入を巡っては、「正確さ」だけでなく、「公平さ」という、もう一段深い問いが横たわっています。

データがないことの不利、データを出すことの不利。
この二つのフェアネスをどうバランスさせるのかは、技術論ではなく、価値判断の問題です。

だからこそ、この議論には、急がず、声高にならず、立ち止まって考える姿勢が求められているのかもしれません。